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ピーノの気になるオペラのよもやま話 プッチーニ「蝶々夫人」1

2016/05/29

ピーノ松谷

オペラ・リリカポップ歌手・演出家

ピーノ松谷

国立音楽大学卒業。 イタリア国立ミラノ・ヴェルディ音楽大学男…

今回は数回に分けて、ピーノも大好きな日本を題材にしたメロドラマ悲劇「蝶々夫人」のお話です。

このオペラも前回紹介した「トゥーランドット」と同じ作曲家のジャコモ・プッチーニの作品です。これまたお涙頂戴メロドラマオペラは、初心者には打ってつけのオペラかもしれません。
但し、ヨーロッパでは、着物がチャイナになっていたり、蝶々だけに昆虫になっていたりと、このオペラの上演では、日本人としては泣くどころか笑ってしまう演出が多いのも事実ですが. . . !?

 

このオペラの成り立ちにも、いろいろと逸話が多く残っています。
まずは、アメリカ人の作家ジョン・ルーサー・ロングという人の小説『蝶々夫人』から始まります。このロングの実姉が当時長崎にあった外国人居留地に宣教師の夫アービン・コレル氏と共に日本におり、彼女がいろいろと日本の習慣やアメリカ人の船乗りと芸者との恋愛を、弁護士であった弟のジョンに事細かに手紙に書いていました。

 

ジョンは、それ以前に既にヨーロッパ人が日本人に対するイメージに大きく影響を及ぼしていたピエール・ロティの小説『お菊さん』(フランス海軍士官だったロティが世界各地を回り、日本に来た時の女性との恋愛経験を日記風にした小説)を知っていて、『お菊さん』と同じ長崎での話に飛びつき、1898年に月刊雑誌『センチュリー・マガジン』で『蝶々夫人』を発表しました。この小説もロティと同じように、いわゆる当時当たり前な白人至上主義的、三文小説お涙頂戴的(!?)小説でした。
ロティの日本人こき落としの精神は、蝶々夫人の現地旦那?であるアメリカの海軍士官ピンカートンに反映していて、ピンカートン=ロティなのかもしれません。

 

時は20世紀前後、1855年から1900年に掛けて5回ものパリ万国博覧会があり、日本も参加していてジャポニズムが起こり、様々な分野で注目されていました。
とりわけ絵画、ゴッホ、マネ、モネ、ドガ、ゴーギャン、ロートレックなどなどに大きな影響を与え、それが印象派に、モダニズムへと時代の芸術運動へつながりました。
ヨーロッパがジャポニズムに湧いている中、1900年にやはりアメリカ人で戯曲作家、演出家のデヴィット・ベラスコが時代に乗った題材にピッタリのこの三文小説(?)『蝶々夫人』に目を付けました。

 

ベラスコはロングの協力のもと、なんとたった2週間で台本を書き上げ、すぐさまニューヨークで舞台に掛け、不作続きで赤字だった劇場でまんまと大成功したのでした。
彼の戯曲では、“日本妻” である蝶々さんの“夫” アメリカ海軍士官のピンカートンが、日本に再来日から翌朝までの2日間のお話としています。つまりプッチーニのオペラ『蝶々夫人』の第二幕から芝居が始まるものでした。
とりわけ、蝶々さん、ピンカートンとの間に生まれた3歳の男の子、そして家事手伝いのスズキが障子越しに正座し、障子に三つ穴を開けてピンカートンを夜通し待つシーンや、蝶々さんが自害する際、息子にその様子を見せないように、アメリカの国旗と日本の国旗を持たせ目隠しして遊ばせるシーンに、観客は涙腺をゆるめて大成功を収め、またたく間にヨーロッパに渡り、なんと初演からたった2ヶ月でロンドン上演となりました。

 

プッチーニもこの演出シーンは、オペラの中でもそのまま取り入れています。
このロンドンの地でプッチーニがこの戯曲『蝶々夫人』を観劇して、一目惚れ、早速ベラスコにオペラ化の許可を得ようとしました。しかし、がめついベラスコからの許可はなかなか下りず難航。
更には台本に対しても難題を吹っかけてプッチーニはかなり手間取りました。しかし、今までの自作のオペラにはない異国風の「蝶々夫人」に惚れ込んだプッチーニはあきらめませんでした。
その後異国風のオペラは幾つも作曲していますが、彼の全オペラ12作のうちで生涯において一番愛したオペラで、自身の臨終の床でも蝶々さんのことを話していたという逸話も残っています。

 

何とかベラスコから許可を得たプッチーニは、日本に関する資料を集め始めます。
丁度その頃、日本初の女優になった川上貞奴が夫である川上音二郎一座でロンドンで興業を終え、1900年のパリの万国博覧会の一角にあったロイ・フラー劇場で公演したりしている中、ミラノでも興業をしていました。
それをプッチーニはしっかりと観ていたのでした。貞奴の琴の演奏「越後獅子」に強く魅かれ「蝶々夫人」のオペラの中に取り入れています。
そのほか、ミラノ在住のイタリア公使夫人の大山久子夫人から「さくらさくら」「お江戸日本橋」「君が代」「高い山を谷底から見れば」「宮さん宮さん」「推量節」などの楽曲、日本の文化習慣などと共に教示され、それらの楽曲、日本の習慣風習は実際のオペラの中で使われています。

 

ベラスコが書いた戯曲は一幕もの。いわゆるプッチーニのオペラの第二幕にあたります。
日本の文化風習習慣を大山夫人から正確に聞いたプッチーニは、新しく第一幕として、蝶々夫人の結婚式と結婚披露宴の場を見事に作り上げました。
そして第二幕をアメリカ領事館としていましたが、オペラが長くなり話しも散漫になるということで、突如アメリカ領事館の幕を全部カットしたのでした。日本人が見ても聞いても不思議のない音楽と台本、明治時代の風習、もしかしたら昭和の半ばくらいまで?ってこんなだったんだ、と思えるほど現代日本人にとっても歴史的に勉強になることが多く書かれていました。そしてヨーロッパ人から見て、当時歴史のないアメリカ人の素行の悪さがピンカートンに凝縮されていました。

 

事実、パリでの上演の際には、オペラ座の支配人からピンカートンのあまりにも人種差別的なセリフをカット、または変えるようにプッチーニに助言して、第3版目(現代版の元) として上演されました。
しかしこれらの多くは初演版のお話。現代版は大幅カット版で、かなり短くして大成功をしたバージョンです。初演版は、残念ながら余りにも日本的な音楽と作風だったので、リハーサル中にもかなりもめて大混乱、そこをプッチーニ自身が皆をなだめつつ、なんとか初演の舞台にこぎつけました。

 

世界初演の日。プッチーニはこの「蝶々夫人」がこれまでのオペラの中でも一番の自信作だったので(そして最後まで)、家族を連れて来たことはなかったのにも関わらず、この日ばかりは家族をスカラ座に呼んでいました。
オペラの前評判はなかなかのもので、チケットもダフ屋価格が跳ね上がっていたりしていましたが、世界初演の上演の際には、どの作曲家もいわゆるブラボー要員「サクラ」を天上桟敷の常連に「縁起担ぎ的」に頼んでいたのを、プッチーニは全て断ったので、天井桟敷の連中は「今にみていろよ!」と手ぐすねを引き開幕を待つことになりました。これも大きな原因だったのか、結果は大ブーイングの嵐。そのほかの原因としては、主役の蝶々夫人のソプラノ歌手の見栄えの問題、ミラノの聴衆に日本の風習習慣が全く理解されず、ただの風変わりな見せ物、着物も全く理解されない状態で、第二幕ではブーイングで音楽が掻き消されるほどになってしまい、緞帳が下ろされてしまったのでした。
プッチーニは家に帰ってからも夜2時になっても寝付けなかったくらい、このオペラの大失敗は納得のいかないものでしたが、彼は全面的に手直しを入れざるを得なくなり、台本、メロディー全曲を通し大幅改訂。「蝶々夫人」のテーマまでも変更したのです。

 

最終的に現在大まかには4版存在して、そのほかにも小さなシーンを復活させたり、カットしたりしていて、様々なヴァージョンの「蝶々夫人」が存在しています。
こうして、日本人的にはとても残念なメロディーの変貌、大幅カット版の現行「蝶々夫人」になってしまいました。

 

さて、どこをどう変えてしまったのでしょうか?
ここからは、次回のお楽しみ!!

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